2000年8月〜2001年1月、中国、中央アジア、トルコ、中近東、旧ユーゴスラビア、スペインをぶらつく。

北京 2000年8月20日〜8月30日

小食堂の流しの兄さん

王府井のバス停にて  王府井(ワンフーチン)の大通りから一歩入ると雑然とした食堂やら雑貨屋がならび、美味そうな串焼き肉の煙が立ちこめる。食堂の小姐(シャオジェ)は最初、挑むようなふてぶてしさで注文を聞いたが、食べ終わるとニコッとして「おなかいっぱいになった?」などと聞いてくる。そのギャップが楽しい。

 ギター抱えたさわやかな流しの兄ちゃんが入ってきて客席を回り始めた。はじめは外国人の俺を無視していたが、呼び止めてフェイ・ウォンをリクエストしたところ、びっくりしながらも応えてくれた。

 そのとたん、店中の視線がこっちに集まるのがわかった。ギターを渡されたので、マヌーチャオを歌ったところ、「好聴(ハオティン)!」と盛り上がる。「おまえが日本人に金払わんとなぁ。」と兄さん、冷やかされている。北京到着二日目にして、いきなり愉快だ。

カザフスタン(ハーサークァースータン)大使館に泣く

王府井のパンク落書き  北京での大仕事は、隣国カザフスタンのビザを取る事だった。北京到着の次の日、やり手キャリアウーマン風の中国女性、寡黙なウィグル人教師、ワイルドな日本人学生らと一緒に大使館前で待つこと3時間半。

理由もなく「あさってまた来てください」と追い返され、2日後に行くと料金を8倍近く吹っかけられた。粘りに粘ったら値下げはしたものの、「一週間後に渡す」と、パスポート代わりのロシア語の紙切れを渡された。

 カザフスタン大使館にさんざん振り回されたあげく、クラクラしそうな日差しの中、ホテルの引越をした。ところが、カザフ大使館のロシア語の紙切れでは、入国ビザの確認ができぬと言う。憔悴しきった僕の有り様に、集まってきた服務員たちもさすがに同情の色をみせたが結局、中国の入国印のコピーをもらいに大使館へ戻る羽目に。

 時間がない。大使館が閉まったら、今夜寝る場所がない。タクシーをつかまえ急いで「三里屯のカザフスタン大使館!」と言うが運ちゃん、「?」てな顔をする。中国語では「ハーサークァスータン」と音程をつけて言わねば言葉として意味をなさないのだ。

 この運ちゃん、初めは「混んでるなぁ。こっち行ったれ」など一人でぶつぶつ言ってたが、そのうち「お前外国人なのか?看不出来(わからんかった)」という。「日本は仕事がよかろう」「いや、今はそんな事ないみたいだ」.... 運ちゃんしみじみと遠くを見る眼で「ハーサークァスーターンかぁ。別の国に行ってみるのはええ事やなあ。」

日本の芸能界情報

日本語勉強中の女子高生  この日は消耗しきったが、無事に宿も確保。日中の暑さは気が狂うほどだが日本と違い、日が暮れたとたんに涼しくなる。だから戸外での夕食は実に気持ちがいい。突然、近くの席から片言の日本語が聞こえてきた。

 日本語を勉強始めたばかりという、その女子高生に「フェイ・ウォンのファンだ」と言うとたちまち音楽の話で盛り上がった。「香港のBeyondは絶対聴くべきよ!」「俺も、3人バンドやってるで」「有名なの?」「有名とは言いがたいなあ」「私達も支持(応援)するよ」などと泣ける事を.... 宇多田ヒカルはともかく、Kittyちゃんだの美少女戦士だの、僕はついて行けままに話が弾む。

冷血動物のカセット  「一人で旅行してて寂しくないの?」「寂しい時もあるけどこういう時は愉快やな」「北京の人は悪い人も多いの」(そして急にすごい真顔になり)「失礼な事聞くけどいい?南京大虐殺は無かったって言う人がいるってテレビで見たけど.... あなたはどう思う?」「そういう人らがいるね、最近は特に。でも俺は、事実だと思う。」

 あどけなさと利発さと、気づかいがめまぐるしく出現する会話に、時間の経過を忘れる。やがておばあさんが呼びにきて、彼女と妹は、子供の顔にもどって手をふりながら高層住宅に消えて行った。

唱片没有、都売完了。

 時々CD屋に入ってみたがフェイ・ウォンのCDが全然ない。不思議に思い店員に聞くと、CDはすぐ売りきれるからカセットしかないのだと言う。何かイキの良い中国ロックない?と聞くと「冷血動物」を勧めてくれた。三里屯のバーで、いわゆるパブ音楽の生演奏は聴いたが、中国ロックの現場を見る機会は今回は無かった。

外国人天国・京華飯店

情報交換や.... 乱痴気騒ぎに明け暮れる安宿の夜  カザフスタンのビザ待ちが思いのほか長くなり、真剣に旅費の節約を考えねばならなくなった。それと、この一週間ほとんど中国人としか接しておらず、旅行者との出会いに飢えてきたので、京華飯店へ引越した。

 ここは外国人バックパッカ―や、パキスタン人だらけ。夜ごと中庭でギターを弾いてわけのわからん歌を歌ってるうち各国の友人ができた。とりわけ、イタリア人Cesare、カタルーニャ人Margi、福岡系日本人Sawako、シンガポール生まれアメリカ国籍の広東人Cheong、などは旅の後半に再会したり、帰った後もたまに連絡を取りあう親友となった。

メシはあてずっぽうで注文するが、ハズレはまだ1回だけ

 チベットを回ってきた、気のいいイタリア兄ちゃんCesare(チェザレ)は、帰国するまでの数日を北京でブラブラと過ごしていた。漢字のわからない欧米人に、中国の一人旅は相当ハードだと思うのだが、メシはどうしてるの?と聞いてみた。人が食ってるものを指差すか、誰もいなければメニューで当てずっぽうに頼むらしい。1回だけハズレたが他は全部おいしかったという。

長城の水売りおばちゃん

万里の長城・水売りのおばちゃん  結局、10日にわたる北京滞在中、カザフスタン大使館参りと京華飯店での乱痴気騒ぎと、その間に街をうろちょろしたぐらいで、いわゆる観光を全然していない。

転落事故あり・この先危険  ウィグル自治区への汽車のチケット入手と様子見を兼ねて北京西駅へ行った時は、建物のあまりの威容(この、無駄とも思える巨大な駅は、世界一なのではあるまいか)と、その中を埋め尽くす人の群れにただただ圧倒され、気力を吸い取られてすごすごと引き返した。

 動物園に行ってみたときは、蒸し暑さに参っていたところに切符売り場のおばさんがあまりに無愛想だったので、これまたメゲて退散した。

 だから京華飯店のツアーで行った司馬台(万里の長城)が唯一の観光となった。これは正解だった。往復のバスでは互いに能天気なバックパッカ―どうし仲良くなり、着いた長城は、水売りのおばちゃんを冷やかしたり冷やかされたりしながらの、汗だくの山登りだ。

 はるか眼下の村から毎日登ってくるという、褐色に焼けたおばちゃん達は、恐ろしく健脚である。照れてなかなか写真を撮らせてくれないが、あまりにかわいいので一枚写すと、急に真顔になり「水買わんといかん」という。同業者のおばちゃんに茶化されながら、もう一本買った。

 かなり上まで登ったところで、最近転落事故があったらしく、警備の兄ちゃんが通行止めの番をしていた。その張君と「危険、行ったらダメ」などの言葉を教え合う。サッカーファンの彼は、しきりに中田を絶賛していた。

新彊ウィグル自治区への寝台列車 8月30日〜9月2日

よく食い、よく捨てる

一度は怖気づいたあの巨大な北京西駅から、3泊4日に渡るウルムチ行きの汽車に乗る。構内の人の海の中に日本人学生と、フランスの女の子を見つけ、3人互いに安堵する。「汽車の中、動き回ってもいいのかしら」とかいいながら、再集合を約束してそれぞれの車両に入る。

 3段ベッドの最上段は、恐ろしく窮屈で、まさしく寝るためだけの空間である事がわかったが、北京西駅での緊張はどこへやら、翌朝には周りの中国人たちともすぐ打ち解けた。帰省する兵士、北京なまり(たぶん)の巻き舌が強烈なボンボン風の学生と人の良さそうなその父親、少し英語も話す学生、小柄だが手足がムチムチとたくましいインテリ風おじさんなど。

 やがてフランス人Naiたちも遊びにきて、にぎやかになる。彼女らは中国の汽車旅でも最も過酷と言われる普通座席(いわゆる硬座)なので、途中下車する夫婦が「私らが降りたら、ここに来ればいいのに」と言っている。実際僕も彼女らの車両まで遊びに行ったが、人がもつれ合うように眠っていた。僕なら3時間と持つまい、と思う。

 話に聞くとおり、皆ひたすら食う。すすめられた一見奇怪な物が、おいしい干し果物だったりする。ひまわりの種をかじり、かぼちゃの種(これは絶品)を食い、カップメンをすすり、列車が止まるたびにまたわんさか買いこむ。そしてひたすらゴミを放出するのだが、列車員が瞬く間に掃除して回る。

感動的なまでに働く列車員

 実際、乗務員のおばちゃんの働きは感動的である。しまりなくひっきりなしに排出される食い物ゴミの掃除、冷房の効きが悪くなったら車両中のカーテンを閉めてまわるというきめこまかな温度調節。僕などは朝晩の歯磨き時、どうしても中国人の勢いに押されて割り込みを許してしまうのだが、すると「あんたさっきからずいぶん待ってるんじゃないの?」などと気をつかってまでくれる。

どうして降りないのよ。

 西へ向かうに従い、どんどん日が長くなる。6時半でもえらく日が高い。風景もいつしか砂漠がほとんどとなった。ときおり現れるオアシスは、やたら鮮やかな黄緑色の花やとうもろこしがいっぱいで、そしてはるか遠方には雪を被った山脈。一日数回の停車のたび、ほとんどの乗客が降りてからだを伸ばし、食料を買いこむ。そうこうしてるうち、漢人ばかりでなく、青い目のウィグル人も乗っている事がわかってきた。

同じ車両に居た日本人が、敦煌に行きたいのに下車駅がわからないと困っていた。周りの人が列車員に聞いたりした結果、駅名が最近変わったのだと言う事がわかった。手足がムチムチしたインテリおじさんが、彼の下車後を気づかって、一緒に降りる客を紹介してくれていた。

 停車のたびにホームに出て、気持ち良さそうにあくびしている女の子がいた。その日本人が降たあと、彼女がけげんそうに、「あんたなんで降りないのよ」と聞いてきた。「俺はピチャンまで行くんで」「あ、そうなの」「彼とは今日ここで会っただけなんや」というと、にっこりしてくれた。

ピチャンの砂漠へ

 朝の6時前というのに真っ暗である。下車の準備をしてると、列車員のおばさんが「外は寒いから着込んで」と言ってくれる。3日3晩の汽車から降りると、そこからはアラビア文字と漢字の、ウィグル自治区だ。

 ピチャンの街へ向かうミニバスは、乗客の半分がウィグル人だろうか。回族の屋台が並ぶ通りをぬけ、ブドウ畑を抜けて街へ入る。北京で常に感じた、街じゅうがむせかえるような強烈なにんにく臭はなくからっとして、ほこりっぽい。


新彊ウィグル自治区/ピチャン〜イーニン へ続く