2000年8月〜2001年1月、中国、中央アジア、トルコ、中近東、旧ユーゴスラビア、スペインをぶらつく。
新彊ウィグル自治区 2000年9月2日〜9月6日
中国語が通じない---ピチャン/新彊ウィグル自治区
バス停近くの招待所(多くの場合外国人宿泊禁止の安宿)をあたってみる。「日本人だけど、いいかな?」「可以!(OK)」。外の畑に下りると竹で囲われただけの穴があり、それがトイレだ。ベッドが置いてあるだけの四人部屋。「カギは外から開けられんから、入る時は呼んでくれ」と宿の男。
近くで買った焼きたてのナンをちぎってはかじりながら、大通りの先に見える砂丘を目指して歩く。表面はカリっと、中はふんわりとして感動的にうまい!それに表面にアラベスクみたいな凝った模様まであり、一気にアラブ・イスラム圏に飛んで来たような気がする。砂丘は近くに見えるのになかなか近づかない。だだっ広く、ビルもない景色の中で距離感がぜんぜんつかめない。
街の中心部をあっという間に通りすぎると、ウィグル人集落ばかりとなる。汽車でオアシスを通過するごとに見えていたひょろ長い木々と、ぶどう棚に囲まれた涼しげな家々。家畜のにおい。トマトでも買おうと雑貨屋に入るものの、店番をしているウィグル人の老人に、中国語が通じない。
ロバ車が砂ぼこりをたてる集落の中の広い道を歩くが、子どもたちは声をかけてくる事もなく「なんやこいつ」という感じでちらっと見るだけ。モロッコや中近東を旅した時の「ジャッキー・チェン!」という過剰な反応とは大違いで、拍子抜けした。子ども4人に「ヤフシムーシズ(こんにちわ)」と言ってみたが、逆ににらまれた。それにしても、オアシスの畑と高い木々の木陰を歩くのは、本当に気持ちいい。さっきの子どもたちがワーワーと追っかけてきたので、再度「ヤフシムーシズ!」と叫ぶと、今度は照れていた。
ウィグル人集落を抜けて
砂丘は目の前に迫ったが、手前にある湿地帯を渡るのに手間取った。浅そうなところを見計らって靴を脱いで渡ってみたが、ドロドロになった。オアシスの小川では、スッポンポンの子どもが遊んでいる。
4日間の汽車旅の後なので、とにかく脚が、おもいっきり歩くことを欲していた。汗もかかずに手前の砂山を登るとその先にずっと、サラサラの砂丘が広がっていた。何かが目の前の地面をかすめて飛ぶように行く。そーっと近づくとトカゲだった。
砂丘と集落の境目にはこんもりと茂った木陰があった。あまりの気持ち良さに昼寝をしていると、小銃をかついだウィグル人が登ってきた。池の鳥を撃ちに来たのだという。夕方、砂丘の砂が冷えた頃にもう一度戻るつもりで、ひとまずはウルムチ行きのバスの手配などをしに街へ戻ろうと、ウィグル集落へ下りていった。
迷路のようなオアシスの用水路と畑の中で迷い、農作業の老人に道を聞くが、中国語がまったく通じない。レンガと泥の家を建ててる人らに「ヤフシムーシズ!」とあいさつすると思いきり笑顔の反応があり、中国語も通じた。僕は漢人(中国人)と思われているのだろうか? それで反感とかもあるのかな。いや、敵意というのとはちょっと違う。老人たちのたたずまいからは、外部への悠然とした無関心が感じられた。
集落の広い通りに出ると、収穫したばかりのマスカットを載せた馬車(ロバが引いてるけど)やトラクターがひっきりなしに戻ってくる。それで空気はホコリっぽいが、門の中に見える家々が、何と広々して涼しげなことか! あのぶどう棚の下で昼寝をしたら幸せだろうなあ。
旅でいちばん美味かったブドウ
結局、長い大通りを街まで戻った時には、日差しと砂ぼこりで疲れ果て、砂丘に戻る気力は失せていた。郵便局も見つけそこねた。宿に戻ると二人の漢人が、テレビを見ている。出稼ぎに来ているのか、互いに会話もほとんどない。簡単な挨拶と自己紹介だけで、あとはずっと押し黙ってテレビを見ている。それはそれで、気を使わずにすむので楽だが。
西の果て、新彊では夜8時になってもまだ明るい。バス乗り場の小姐から明日のウルムチ行きを確認し、すっかり涼しくなった大通りで若いウィグル母子からマスカットを買った。たわわな3房がたったの1元。これを1時間かけて食った。この後、中央アジア、トルコ、アラブ諸国でも果物には全く不自由しなかったが、砂ぼこりを払い落としもせずにむさぼり食った、ここピチャンのブドウは忘れ難い。
列車のなかでは腹をこわしたりもしたが、1日中歩き回った今は、自分の腹が信じられる。ピリッとうまいチャーハンにビール。小姐に「あんたの中国語、いまいちね」とからかわれる。北京での甘ったるい油っこい匂いがなく、乾いた空気。
ウルムチへのバス旅
6時過ぎに起きて、同室の中国人に気を使って真っ暗の戸外で荷づくりをしていると、宿の男が「日本人の友人は初めてだから住所くれ」という。「7時ごろで間に合うからゆっくりしろよ」と。ギターを持ってバス乗り場まで送ってくれた。
しかし男の言う通りにゆっくりしてたら座れないところだった。売店の小姐が、「夕べは乗らなかったのね」と話しかけてくる。中国の女の子は初め無愛想だが、ちょっとでも打ち解けると、人なつっこく声をかけてくれるのが楽しい。
7時半の夜明けとほぼ同時、定刻より少し早くバスは満席で出発した。客の9割がたはウィグル人。人々の会話がまったく聴き取れない。いったん街を出ると、ほとんど人気のない荒地に泥の干しレンガを格子のように組んだ建物が並んでいる。倉庫かなにかだろうか?尖った石が並んでるのは墓群だろうか? 前にモロッコの集落のはずれで見た風景に似ている。
前方でトラックが横転していたので、脇道へそれて行く。脇道はすぐに合流したが、一本道だったらどうなってたんだろう。トルファンのあたりより、両側に荒々しい岩山が迫り、渓流に沿ってゆるやかに登って行く。ボゴダ峰らしき雪山が見えたとたん、あたりは広大な草原に一変した。途中、トイレ休憩で下車した時は空気がピリッと冷たかった。風力発電の風車群が左右にズラッと見えて、うたた寝して目覚めてもまだ続いていた。
ウィグル食堂のレッチリ
ピチャンから5時間ほどでビル郡が見え始め、ウルムチ着。カラッと涼しい。荷台からの荷下ろしを手伝うが、なぜか僕のは最後まで残されたあげく、自分の荷を受け取ると皆さっさと行ってしまったので、自分で上がってかついで下りる。北京で思いのほか時間を食ったので、ウルムチはパスしてイーニンでゆっくりしようと決めていた。乗り場を求めて右往左往していると、中国語をしゃべる若いウィグル女性が実にてきぱきとタクシーまで案内してくれた。
バス乗り場につくとけっこう強引な客引きが110元で誘ってくる。「70元ぐらいであると聞いたけど」と言うが、回りの男らが口をそろえて、そんなのないと言う。男についていくと寝台車だった。「寝る必要ないから」と断りかけたが、列車よりずっとゆったり寝れそうなので結局それに乗った。
人であふれるバス乗り場をうろうろしてると別のウィグル人が「もう決めたのか」と聞いてくる。「あれや」と指差すと、回りの男らが「日本人も乗れるのかよ」などとささやき合っている。香港映画のラウ・チェンワンみたいな乗務員が若い中国人のおねえちゃんに説明してるのを聞くと、50元とか60元とか言ってる。結局は、しっかりと外国人料金取られたんじゃないか! まあいいや、もう払ったし。ゆっくりできそうだし。
バスはなかなか出る気配がないので、香ばしい肉の匂いにつられてウィグル食堂に入った。働いてる兄ちゃん姉ちゃんを見ているだけで楽しくなる。動作が大きくてファンキーなのだ。中でも、大鍋でブロフ(ピラフ)を混ぜてる兄ちゃんは、レッドホットチリペッパーズのベースのFleeを見てるみたいだった。いくつもの大鍋に燃え盛る炭火で、店内は相当暑いはずだが、涼しい風が入るから気持ちいい。
威勢のいいウィグル人を見てるだけで飽きなかったが、いつまでたっても来ないので「還没来」と催促するもののまったく通じない。立ちあがって表のメニューを指そうとすると、大鍋につきっきりだったレッチリFleeが、「ちょい待ちな」というふうに制し、「大小?」と聞いて持ってきてくれた。米と黄ピーマンの混ぜごはんに羊の首あたりの塊がドーン!と乗っている。美味い!しかし巨大な肉塊と、底にたまった油はさすがに食べきれず。帰りに店の兄ちゃんから、ブロフとラグメン(熱い冷麺みたいなの)の読み方を確認した。
若い漢人たちとのバス旅
バスの寝台で風にあたりながらのんびりしてると、だんだん客が入ってきた。ピチャンからのバスとはうってかわり、若い漢人の男女ばかりだ。4時出発といいながら、7時半になってもいっこうに出る気配なし。8時、「やっと動いた」と思ったらターミナルの中で場所を移動しただけだった。どういうわけか、客も入れ替わり、学生ぐらいの漢人がほとんど。
カザフ人っぽい顔つきの女の子がしきりに話しかけてくる。ギターをしきりに見たがるのでフェイ・ウォンを2〜3曲歌うと、上段ベッドから皆がいっせいに、逆さまに顔をのぞかせて見るのがサルみたいで可笑しかった。となりの寝台の“明日のジョー”が「北海道は行った事あるか、どうして沖縄には米軍がいるんだ? 中国と日本とどっちが好不好?」などと話しかけてくる。
どこから声が出とるねん?という感じのイケイケ風のねえちゃんも乗ってきて、乗務員ラウ・チェンワンと何やら言い争っていたが、そのうちにじゃれ始めた。9時になって、本当に出発。MDを最大ヴォリュームにしてフェイ・ウォンを聴きながら暮れゆくウルムチが遠ざかる。
チャンキ(昌吉)を過ぎたと思われるころ小便休憩。そのまま寝ていようかと思ったが、陽気なジャック(勝手に命名)が「行っとけ行っとけ」と言う。皆、暗がりの中、まったくてきとうな所でシャーシャー放出している。再びバスが動き出すと、それまでの眠りが嘘のように車内が再びざわざわする。ジャックなど、寝ようと試みてる俺の横にずかずかとやってきて、いきなり目の前に「ピングゥオ!」と林檎を差し出す。「今はいらんよ」と言うが「いいからいいから」と置いていく。
ばりやろー(ばかやろう)
ゆったりした寝台は快適だったが、かなりの高地を走っているため、隙間風が相当冷たい。凍てついた草原の向こうに、ずっと山稜が連なっている。すっかり夜も空けたころ、何もない道端でトイレ休憩。男はてきとうにそこらでシャーシャーやっているが、女の人は畑の茂みに入っていた。乗務員のラウ・チェンワンが上機嫌で俺に「ばりやろー」と繰り返す。日本軍の「ばかやろう」を真似ているのだ。
やがてサイラム・ノールの美しい湖面があらわれ、車窓からカザフ族の放牧が見られるようになった。バスは美しい針葉樹林の中を、中国に入って初めて見る清冽な渓流に沿って下り始めた。馬や羊の群れに、何度も道をふさがれる。トイレ休憩では、カザフ人らしき物売りが「ハーイ、タタタタタ」と聞こえる掛け声で、窓に群がってくる。ゆで玉子を買った。
微熱のイーニン
目星をつけていたShawkat Hotelは、なかなか安い上にゆったした個室。北京のドミトリーでの喧騒に汽車やバスの長旅が続いたから、実に9日ぶりの独りっきりである。出すもん出してシャワーを浴びて、さー、孤独を楽しむぞとベッドに転がると「フロントの娘はわかってなかったんですが、うちは外国人ダメなんです」と支配人がやってきた。粘ってみたが「公安局の許可がどうのこうの」と、どうしようもなさそうなので近くのホテルに引越した。
カザフスタンのアルマトィ行きバスは、あと3日出ないこともわかり、それまでの間、このこじんまりしたウィグル自治区の街を楽しむことにする。イーニンでの最初の夜は、残った中国元を数えて両替の段取りなど考えたり…と、国境越えを目前にひっそりと過ごした。
翌朝、起きると微熱があり、喉もいがらっぽい。夕べのバスで隙間風にあたったのが悪かったようだ。国境越えをするのに、この体調じゃまずいなあ。少し憂うつになってゴロゴロしていると、「窓がどうのこうの、女の子がどうのこうの」となれなれしい男の中国語で電話が入った。「誰?何?ホテルの人?」などと言ってるうちに「ごくろうさん」と言って切れた。その時は頭が回らなかったが、これ、ホテル売春の注文聞きだったんだろう。
書き溜めた絵葉書を出しに郵便局へ。局員はみんな若いウィグル人で、とつとつとした中国語で対応も親切だった。自分が中国語になれたからか、それとも気のせいなのか、ここに来て窓口での対応などが、北京と比べると優しく思えた。
バスターミナルの一角で、パレスチナの友人の息子とそっくりの顔をした、ウィグル兄ちゃんが呼びこみをしていた。その名も“大世界清真食堂”。カバブと肉まんが絶品だった。この兄ちゃん阿里木(アリム)の呼びこみも、見ていて飽きない。知り合いなど見つけると、手を大きく広げて抱きつかんばかりの勢いなのだ。
宿でたっぷり昼寝をしたら、気分がすっきりした。7時半ごろ、まだ明るい街に出た。太陽電池をかざしてMD用の電池を充電しながら、街外れのイリ川目指して歩く。この携帯用バッテリーチャージャー、もともと山登り用に買ったんだが、この旅を通してなかなか威力を発揮することになる。高校生の下校の集団とすれ違ったところで2路バスに乗り、イリ川の橋の手前から歩く。
川は、乳白色の濁流が恐ろしい勢いで不気味に渦巻いていた。橋を渡ると、疎林の中にカザフ族のものらしきゲル(テント)が点在する一本道が続いていた。脇の草地を歩くと馬糞の甘い匂いがした。2路バスや暴走タクシーや馬車や自転車の子どもが行き交う。3キロほども歩いたかと思われるころ、回族の集落があり、小さな市でトマトを買った。街へ戻るバスに乗ると、さっきと同じバスだった。互いに「おっ」という具合で、乗務員としゃべりながら待つ。
ウィグル人高校生と、そぞろ歩き
橋を渡ったところで、「こっちの方が早く着くから」と誘導されるままに移ったバスは、ウィグル人の若い子たちで満席だった。僕が乗るのを待ち構えていたかのように、高校生ぐらいの男女が話しかけてくる。まずはウィグル語と日本語の簡単なあいさつの教え合い。回りの大人たちも楽しげに見ている。男の子はタイアール、大人っぽい女の子はグリミナム、活発そうな女の子の名前は、書いてもらわなかったので覚えられなかった。
彼らと一緒に下車し、新華通りをそぞろ歩き。タイアールはサッカーの中田を絶賛。万里の長城の少年兵もそうだったなあ。グリミナムが実に楽しそうに「セックス!」と言うんでギョッとしたが、「サックスを習ってる」と言ってたのだった。
片言の英語交じりの中国語で、彼らは日本のビルは高いとか電化製品はすごいと絶賛し、僕は「いや〜、そうでもないんだけどな。う〜ん、日本はなあ」と歯切れの悪い返事。彼らどうしでしゃべる時は完全にウィグル語だ。途中、彼らの友達が合流したり別れたりしながら、街灯のともり始めた新華通りを楽しく歩く。僕が少しでも黙ると、タイアールは「気分を害したか?」などと気を使ってくる。
青年公園の芝生で記念撮影。女の子たちが、弾けてポーズをとりまくる。そこにメガネを置き忘れたので探しに戻ると……、恐れていたことが起こった。彼女らが「そりゃたいへん!」とばかりにワイワイやってきて、僕が見つける前に踏んでしまったのだ。置いてたメガネを。さいわい、ジョイント部分が少し曲がる程度ですんだけど。とにかくウィグル人の若い子はファンキーだなあ。
日本に帰るのは4ヶ月後だから、写真はその後に送るよと言うと、皆一様にがっかりした様子。いちばん大人びたグリミナムが住所を書いてくれた。漢字で書く時は固いが、アラビア文字のウィグル語で書く時は流れるようだ。「ホシュ!」と言って楽しく別れた。
新彊の夜を遊ぼうや
グリミナムらといる時は楽しさのあまり忘れていたが、微熱のままずいぶん遅くまで歩き回ってしまった。ビールでも飲んでさっさと寝ようと、バスターミナル付近まで戻ると、ウィグル音楽をガンガンにかけた屋台があり、カバブの煙についフラフラと誘われてしまった。同じ長テーブルで飲んでたジョージハリスンっぽい若いウィグル人が、透明のきつい蒸留酒を一杯くれた。
他愛のない話をしながら飲んでいると、漢人の女の子を連れた少年もやっきて何やら愚痴っている。どうやらこのジョージ、少年たちの親分格のようだ。帰ろうと席を立つと、少年たちが「新彊の夜を遊ぼうや!」とけしかけてくる。カラオケだ、ディスコだ、女だ……、50元もあったら足りる、などと。「ヤバイと思ったら俺はさっさと帰るからな」と言うとジョージは楽しそうに「可以、可以(かまわんよ)」。ウィグルの不良(?)3人と微熱の酔っ払い日本人ひとり、タクシーに乗り込み、降りたのはさっきグリミナムらと別れた広場の近くだった。
ここでタクシー代を当然のごとく払わされ、もう10元くれ、と言うので「どうするんだ」と聞くと「飲むんや」。「それなら、一緒に飲もう」と、薄暗い歌庁(ディスコ)に下りて行った。大事な旅日記をチャック付きのポケットに移しかえるなど、酔った頭を働かせて一応の警戒態勢をとったものの、彼らは結局、野郎ばかりで無邪気に踊り狂いビールを飲むばかり。フロアを見まわしても、踊ってるのは漢人もいればウィグル人もいるが、いずれも彼らと同年代の野郎ばかり。踊り疲れた彼らとしゃべってると、時々ジョージが「シッ」と制したりなどする。屋台で会ったときは、口ひげのせいもあってか大人びて見えたが、酔っ払ってしゃべるとほんの子どもだ。握手して別れ、ホテルに帰るとさすがにぐっすり眠れた。
大世界清真(イスラム)食堂
起きると、なんだかすっきりしている。粘りのある鼻水が出るのは風邪が治りつつある証拠だ。国境越えの前になんとか治りそうだ。明日からの中央アジア入りに備え、人民公園の木陰で簡単ロシア語の予習をしていると、靴磨きの子どもがふたりやってきた。初めは断ったが、ホコリ払いだけやってもらう。5元ではダメだというので、ひとり5元ずつ払うがまだ足りないという。いつのまにかおっさんが来て人の本を勝手に広げてるので、頭に来て「疲れてるし、一人にしてくれよ」と場所を移動。
しばらくするとさっきの靴磨き少年の小さいほうの子が、弟らしきチビをつれてやってきた。もう商売する気はまったくないらしく、太陽電池を見せてくれとせがむ。見せて、身振り交じりで説明すると、自慢げに弟に解説していた。
3日間かよいつめた大世界清真食堂で、ラグメンを食いながら、阿里木(アリム)に明日発つことを告げた。人通りも少なくちょうど店じまいにかかるころで、彼もややヒマだったのだろう、正面にしんみりと座って「明日行くのか〜」と言う。しみじみ向かい合ってしゃべってみると、あどけない顔に小さな体をしているが腕が太いのだ。日本から来たことを言うと、従業員一同ちょっとした騒ぎになった。そういえば、新彊に来てからというもの、「どこの国から来たのか」じゃなくて「どこの地方から来たのか」と聞かれることが多かった。
帰り際に写真撮っていいかと聞くと、またはじけるような動作で「可以、可以!」とポーズを取りかけるも、思い直して食堂ののれんの前で並び直し。「送りたいから住所教えてくれよ」というと、「行、行(シン、シン)=いいよ!」とぎごちない漢字で書いてくれた。食堂の“堂”を書く時は、のれんを何度も見て確認していた。ウィグル人にとって中国語というのは、ある種の外国語なんだな、と思った。しっかりと握手して別れたが、最後までアリムは「あしたまた来れんのか〜」と言っていた。
アルマトィ(カザフスタン)2000年9/7〜9/15
へ続く