2000年8月〜2001年1月、中国、中央アジア、トルコ、中近東、旧ユーゴスラビア、スペインをぶらつく。

キルギス 2000年9月15日〜9月29日

ダッシュしてくる“顔”

 バスターミナルに入ったミニバスめがけて、タクシーの運転手たちがバラバラッと殺到してきた。中でも、全身が顔のような巨体の運ちゃんはとりわけ強引だった。入国第一歩で、いきなり相手のペースで引っ張りまわされてはたまらない。「たのむ!ちょっと待ってくれー!まずは1人にしてくれ!」と気迫丸出しで叫ばざるを得なかった。

 それでもなおダッシュしてついてくる“でかい顔”を振り払いながら、冷静に荷を担ぎなおそうとしていると、二人の私服警官に呼び止められた。タクシーの空車に乗り込まされ、マリファナ、ピストル、ナイフの有無を聞かれ、ズボンの上から簡単なボディチェック。「テロリストが入ってきているからね」ドル札も数えられたが、抜き取られることはなくきわめて紳士的だった。無事に放されると、他の客はもう姿を消しており、“顔”とドイツ語を話す相棒が辛抱強く待っていた。

 まずは両替しないと始まらないが、バスターミナルにはそれらしき場所が見当たらず、ドイツ語兄ちゃんが、市内の両替所に寄ってホテルまで連れてってやると言う。“顔”がハンドルを握り、ドイツ語兄ちゃんは両替所や目星をつけていたホテルでかいがいしく下車してくれるのだが、おそらく悪気はないと分かっても、兄ちゃん主導で事が進むのに不安を覚える。3軒目のアクサイ・ホテルでは自分でフロントへ行った。英語も通じてあっさりと部屋を確保できた。

 タクシーで待ってた二人に別れを告げると、ドイツ語兄ちゃん、まだ足りないという。「最初にわけがわからんまま払った450スムで十分だろう? あの中からあんたが“顔”に払えよ」と言ったら、ニヤッと笑ってあっさりOKしてくれた。

果物がなかったら死ぬ〜

 汗をひかせる間もなく、レギストラーツィア(外国人登録)に行かねばならなかった。それにしても、暑い。アルマトィでもそうだったが、午後から夕方にかけての強烈な日差しは、まともに浴びれたものじゃない。しかしオヴィール(役所)までの道のりにはほとんど日陰がなく、かなりバテた。係官のおばさんは、しきりと入国目的にこだわった。どうして日本人がこんな国に来るのかと。キルギスではトレッキングが目的だったから、「山歩きが好きなんです」と素直に答えたが、なおも半信半疑の顔。そして、どういうわけか今日は終わりだと言う。明日また来いと。

キルギスの山(アルティン・アラシャン) とにかく水分が欲しい。宿への帰り、桃みたいなりんごやら20世紀ナシみたいな洋ナシを買い、待ちきれずに道端に坐りこんでむさぼり食った。道端で売っている果物を見るだけでも、ものすごい種類がある。日本ではほとんど口にすることのないザクロも、安くて大きかった。

 ようやく生き返ってアク・サイへ戻り、ロビーにいたドイツ人のクリスティン・キーネルとしゃべっていると彼もカラ・コル方面の山に行こうとしていた。感じのいい穏やかな男なので、それじゃあ一緒に行動するか、ということにする。しかも彼は、すぐ近くにオヴィール(役所)があることも教えてくれた。アク・サイの隣のカフェでポット満杯のチャイを飲んでいると、西日が完全に沈み心地よい涼しさがやってきた。キルギスの第1夜だ。

チビのズィマー

 クリスティンに教えられたオヴィールに、朝一番に行った。ひんやりと気持ちいい朝のざわめきの中、スカーフをかぶったロシア系おばさんの世間話を聞きながら並んで待った。実に簡単に終わり、これで、中央アジア特有の面倒な手続きともおさらば。

 その日の昼間は、ドゥボーフィ公園の木陰のベンチでロシア語の勉強や昼寝をした。広い公園には、輪になってロシア民謡を本格的に歌いまくるおばさん連中が入るかと思えば、友人と5分間だけ話をしたいから場所を代わってくれないかと言うワケのわからん失礼な奴がいたり、トチの実を割ろうと一心に地面に投げつけているキルギス人の少年がいたりと、飽きなかった。
ビシュケクのカフェで  そして腹が減ればサソヴィエツカヤ通りとチュイ通りの交差点あたりに出かけ、屋台のハンバーガーを食ったりと、そんなふうにしてビシュケク最初の日々を過ごした。

 宿の中庭でギターを弾いていると、旧ソ連のカネフスキー映画「動くな、死ね、よみがえれ!」の主人公にそっくりの4歳ぐらいの男の子が触りにきた。この子は、ロビーで大人たちと一緒にロシア語吹き替えの映画を見ていたり、宿のちょっとした仕事を手伝ったりしている。
 シャワーを使いたい時は、この子に鍵をあけてもらうのだ。いつも何か独り言を言いながら、ネズミのようにチョコチョコと動き回っている。「名前は?」と聞くと小さい声でズィマーと答えた。

 アク・サイのとなりのカフェで食べる、アカラチカ・リィス(ローストチキンとご飯)も美味かった。夕方からポット一杯のチャイをゆっくり飲み、そのまま夕食になだれ込むことが多かった。黒髪のウェイトレスや金髪のナターシャから、メニューのロシア語を教わるのも楽く、「魚は今日はありません」「シャシリクあと15分待ってもらえますか」「羊はなくて、鶏肉だけどいいですか」などと、ちょっと緊張気味にマメに確認してくれるのが、とても可愛らしかった。たまにビールも飲んだが、なぜかキルギスではビールが割高だったのでウォッカのお湯割りを頼むことが多かった。

ガソリンと地図

 キルギスでの山歩きのため(だけ)に、最低限のキャンプ道具を持ってきていた。携帯コンロの燃料を求めてガソリンスタンドへ行ったが、ガソリンは扱ってないようだった。MSRの山用コンロは、灯油でも使えるのだが、やはりガソリンが使いやすいしトラブルも少ないので、ガソリンスタンドを求めて歩き回った。それに、山の地図も必要だ。

カフェのみんな  昨日見つけたスタンドにも、ガソリンはなかった。ちょっと英語のわかる丸顔のキルギス娘が、「これもいけるはずよ」と、ディーゼルっぽいのを入れてくれた。金を払うと従業員が皆、ふざけてるのか本気なのか「危ないから早く遠ざかって!」と口をそろえた。

 高級ホテルの売店に行っても、博物館に行っても、山歩きの実用に耐えるような地図はなかった。またもや暑さで憔悴しかけたころに、地図専門店にたどり着いた。壁一面に貼られた地図を見てるだけでワクワクしてくる。概念図っぽいのと、軍用の精密なのを1枚入手した。

 いい地図が手に入ったところで、山の食料を調達しにオシュ・バザールまで足をのばすことにした。僕の山歩きの定番、ドライフルーツやチョコレートを買いこんだ。バザールにいると、ここが旧ソ連であることを完全に忘れる。気分にさらに勢いがついたので、西バスターミナルまで、バスの時間を調べに行く気になった。

 キルギス人の静かな集落を抜ける大通りは舗装してなくて、街路樹が濃い木陰を落としている。両側には質素な家々が並び、オシュ・バザールからビニール袋を下げて行き交う人がちらほらと行き交うだけだ。ビシュケクの市街とは別世界だった。

 カラ・コル方面へのバスを調べると、114番ミニバスに乗ってアク・サイへ戻った。中庭でコンロに着火してみると、ガソリン並みにきれいな炎が出た。これで山の準備はほぼOKだ。
 そのままギターを持ち出して、夕べ部屋でコード進行を究明したフィッシュ・ボーンの「レモン・メレンゲ」を歌ってると、チビのズィマーが空手の真似をしながら触りに来た。窓からおっさんが何か言ってるので、「うるさいか?」と聞くと「イグラーチ、ハラショー(うまいやないか)!」

 そのままギター持って隣のカフェへ行くと、1人の兄ちゃんが渋いキルギスのポップソングをやってくれた。明日から山に行くんだと言うと、店のアゼルバイジャン人が「ジェーブシカ(女の子)たちと写真撮ろうや」。

峠に立つクリスティン  クリスティン・キーネルと同室のスイス人は、オシュからフェルガナ盆地を経てウズベキスタンに行こうとしていた。「陸路は危ないんじゃないか」と言うと、「スイス大使館は、1人で山に行かない限り大丈夫と言ってる。日本大使館は、去年の誘拐事件でナーバスになってるんだろ?」 逆に、僕が旧ユーゴに行くつもりだと言うと彼は驚いていた。ベオグラードへ行くビザは、ヨーロッパでは難しいらしい。

 クリスティンとは、朝7時に出る約束をした。「でもちょっと飲みすぎた。下にいなかったら起しに来てくれ」 彼は、中国のカシュガルに抜けようとしていたが、中国ビザや国境越えのアレンジメントが、どうもうまく進んでないようだった。Too much money, too much time, And too much energy! と笑っていた。

山のふもと、カラ・コルへ

 ユーゴ映画「黒猫白猫」のダダンをもっと軽妙にした感じのハッサンが、助手席から振り返ったまま、ドイツ語でひっきりなしにしゃべっている。僕はバスでゆっくり行くのもいいと思ったのだが、クリスティンは乗合タクシーが速くていいぜと主張し、ドイツ語をしゃべるハッサンとキルギス人の女性2人に同乗することになった。

 ビシュケクを抜けるとしばらくは優しい草原が続いたが、やがて荒々しい流れに沿って山地に入り、それを下ればイシク・クル湖だった。ふたりから、ワンポイント・キルギス語を教わる。山はトー、川も水もスー。
 荒れたアスファルトを時速100キロでビュンビュン飛ばす。ときおり通過する集落には、フェルトのとんがり帽子をかぶったキルギスの老人の姿が見えた。右手に広がる湖面の向こうには雪をかぶった天山(テンシャン)山脈が迫り、左のアラ・トー山脈のすぐ向こうは、数日前までいたアルマトィだ。素通りするにはあまりにもったいない景色が続く。

 カラ・コルは静かな街だった。同乗の3人と別れて、ヤク・ツアー・ホテルを探す。山好き家族が経営する小さな宿だ。持ってきたツェルト(簡易テント)を張ろうとして、ぺグ(杭)を忘れたことに気づいた! が、運良く増築工事中で庭にいくらでも廃材があったので、針葉樹の匂いのするぺグを自作することができた。山に入る前に気づいてよかった……。

 標高1600メートルのカラ・コルでは、山が圧倒的な近さで迫っていた。クリスティンとバザールへ出かけてスープの素や乾麺を買い、野菜を売っていたおばさんや女の子と、しばし楽しい時を過ごした。クリスティンはバシバシ写真を撮っていたが、僕は初対面の人にカメラを向ける勇気に、どうしても欠けるのだった。

 夜には、たっぷりの家庭料理をオランダ、ニュージーランド、アイルランド、イングランド人皆で囲み、ビールを飲んで過ごした。しかし、ヨーロッパ人どうしが英語でしゃべり始めると2割も理解できなかった。宿のネコが2匹、行ったり来たりしていた。庭に張ったツェルトに戻る時、すごい星空だった。標高1600メートルの地面の上で、ぐっすり眠った。

アルティン・アラシャンの温泉

 朝のお茶を飲んで、クリスティンとおおまかな食料分配をした。彼はオランダの女の子からチーズを分けてもらっていた。ありがたい。準備が完了すると僕は、山に入るパーミッションを受け取りに教えられた建物へ行った。クリスティンは「なくてもいけるよ」と言ったが……。

 しばらく待ったが、若い兄ちゃんがやって来て向かいの建物の部屋まで案内してくれた。だが、もうひとりおっさんが入ってきて話がややこしそうになった上、30ドルを要求されかけたので、「友人が待っている」と急かしたら、あっさりともらえた。

 あわてて戻ると、クリスティンとオランダ人カップルはバスに乗って待っていた。乗客は地元のキルギス人ばかり。おっぱいをやっている母子や、フェルトのとんがり帽をかぶった老人たちと、短いなごやかな車中だった。

 バスを降りてアラシャン川沿いに歩き出すと、晴れて暑くなってきた。渓流での釣りを試してみたかったので、3人にそう告げて先に行った。毛ばり釣りの最小限の道具を忍ばせて来たのだ。分岐のところで間違ってしまい、地元の人に聞いて引き返したので、また3人に抜かれていた。追いつくとちょうど、許可証を取っていないクリスティンが、ガイドふたりに止められていたところだった。どうやら、下山のあとに出向いたらいいようだ。終始なごやかな空気だった。

 再び3人を残してずんずん登って行った。アラシャン川の流れは、日本の雨上がり後の増水状態に近かった。馬で下ってくるキルギス人に尋ねてみると、魚は大きいのがいるよ、でも釣らなきゃ捕れないよと言う。浅瀬が広がるところで、毛ばりを振ってみたが、やはりこの水量では無理なようだった。3人も追いついてきたので、釣りはあきらめた。

 やがて道は、川からはなれて大きな登りとなり、正面に雪をかぶった山々が迫ってきた。朝からナンをかじっただけだったことに気づき、ソーセージやチョコレートを腹に入れる。やがて、下山してくるトレッカーの一団とすれ違うようになった。
 夕方近くなると空が怪しくなり始め、アルティン・アラシャンの広い牧草地が見えるころには無視できない雨となった。どこが事務所なのかわからないまま、別グループのドイツ人らと雨宿りしているうちに、巨大な雨傘をさしてクリスティンが悠然とやってきた。

 ツェルトを張り、熱いお茶を飲んでいると、いったん止んだ雨がまた降り始めた。玉ねぎとパプリカ入りのヌードルでホカホカになると、もう一歩も動きたくなくなった。クリスティンは温泉につかってくると言って傘をさして出かけ、俺はさっさと寝袋にもぐり込んだ。

アラ・キョル湖へ

 夜中も雨は断続的に降り続いた。標高2600メートルもあると、そこそこ着込んだだけではまだうすら寒く、1時間ごとに目覚めては時計を見ていた。7時に声をかけあって起き出し、茶だけわかして8時には出発した。晴れそうな気配があった。

牛と俺  アラシャン川の支流に入るまで、牧草地と針葉樹林の小刻みなアップダウンが続いた。澄み切った流れをまたぐ木橋がをわたり、気持ちのいい樹林帯を登ると、一面の牧草地が広がった。なだらかに見える斜面も、登りつづけるのはきつかった。天気はすっかり快晴。どこまで登っても、あちこちで牛が草を食んでいる。

 前方に見えるモレーン(氷河の残骸)が次の分岐点だろうと思ったが、はっきりした踏み跡もなければ、何の標識もない。クリスティンと「この谷の向きから見て、こっちに行くべきだろう」「いや、あのピークの形から見て、こっちちゃうか」などと言いながら登った。目指す峠が、屏風のように立ちふさがって見え始めた。その直下までは、ヒーヒー言いながらも、思いのほか早く着いた。

登りつめた峠にて  しかしここに来て、一面ガスに覆われ始めた。雪もちらつき始め、はたして今日中にアラ・キョル湖に着くのか不安がよぎってきた。ガスが晴れるのを待って休んでいると、馬で登ってくる3人が見えた。オランダ人カップルとガイドのイーラだった。
 ここで3人は馬を下り、彼らについて雪の急斜面を登った。イーラと会っていなければ、ちょっとわからないようなルートだった。最後の詰めは、足を雪の中に蹴り込みながら登った。登りきったところでガスは完全に晴れ、直ぐ下にアラ・キョル湖が! オランダ人とクリスティンが近くの小ピークで記念撮影している間、座ってイーラに礼を伝えた。

ガイドのイーラ  標高3800メートルの峠。考えてみれば生まれて最高の標高にいるんだな。やがてイーラが「時間ですよ」と叫び、彼等3人は馬のところへと、斜面をかけくだっていった。僕等ふたりも反対側の、こちらは雪のない斜面を滑るように下りた。一気に湖まで下った。いい気分で湖畔の草地を歩くが、前方に見える大岩を、下から行くべきか上から巻くべきかがわからない。迷ったすえ、下へ行くと湖でどんづまりだった。

 荷をいったん下ろして、交代で岩場を上がったり下がったりして前方を偵察しているうちに、急に疲れが出てきた。日も落ちて、気があせり始めたころ、岸壁の下でこちらを見ている人影を発見。ウズベク人のユーラたちだった。キャンプサイトは、ユーラたち2パーティーが巨大なユルトを張っていて、にぎやかだった。

アラ・キョル湖のほとり  こんな高地での、しかも軽量テントでのキャンプは初めてなので、時間かけて慎重に張った。ユーラの兄ティムールが、コンロを貸してくれないかと言ってくる。クリスティンとふたり、彼等の夕食に招かれた。皆、相当に山慣れた本格的な人たちだった。ウォッカこそないものの、ものすごい量の食料をダンボールごと持ってきている。この人らには、軽量化という発想はないのか??と思ってしまった。「明日の朝もお前のコンロ使わせてくれ。また一緒に食おう」

 9時ごろ、自分のツェルトに戻った。上に6枚・下に3枚・靴下3枚に寝袋といういでたちで足をザックにつっこんで、3500メートルの高地で快眠。

ウズベク・パーティーとB級ロック

 6時過ぎにティムールがコンロを取りにやってきた。オートミールにバターを溶かし込んだような朝食。カロリー高そうな食べ物だ。キャンディーやチョコの切れ端を回してくれるのもうれしい。夕べは、豪快だけどお茶目な人たちだなあ、と思ったがさすがに出発前の動きには、皆、無駄というものがなかった。だけど、燃料をペットボトルに入れて運ぶのは危なげだなあ……。

わが簡易テントと、ウズベキスタンのユーラ  クリスティンと一緒に、一足先に下り始めた。ほとんど滝に近い流れに沿って、緊張の連続である。急傾斜を下りたところには、モレーン(氷河の残骸)が川をせき止めてできたた池があった。そこには、まるで童話に出てくるようなキャンプサイトが広がっていた。実は夕べ、僕があまりにへばってるのを見てユーラたちが「1時間も下ったら、最高のキャンプ地があるぞ。そこまで行った方がよく寝れるぞ」と言ってくれたのだ。しかし夕べの疲れ具合では、下る途中で確実に怪我をしてただろうな。

 そこから先は、苔むした岩のころがる針葉樹林や雑木林と、日本の山と何ら変わらない懐かしい景色の中を下った。川沿いまで降りると、ユーラ達のパーティーがチャーターしたジープが待っていた。やがてウズベキスタンの皆さん、シェルパのような荷をかついでのんびりと下ってきた。

 クリスティンとふたりで10ドルを払い、幌のフレームにつかまって、川沿いの悪路を揺られながらカラ・コルへと戻る。自分勝手なギターがやたらかっこいい、ちょっと古くさいロックがかかっていた。ボリスという学生が向かいにいたので「知ってる?」と尋ねると、カラ・コルのローカルグループなのだそうだ。名前をメモした。ボリスたちと再会を約束し、ヤク・ツアーに戻ったら、ヒゲの日本人が!

腹こわす、熱も出る

 アルマトィで別れたKが、中庭でバイクの手入れをしていた。オランダ人も山から帰ってきた。夜は中年フランス人のティエリー氏も交え、なごやかに盛り上がった。次の朝、クリスティンは何の疲れも見せずビシュケクへ戻って行った。奴は鉄人か……。俺はと言えば、皆が去り始めたころから強烈に腹がくだり始めた。その日には団体客が来るというので、静かなホテル・カラコルへ引越しした。

 夕方、果物と水にトイレットペーパーを求め、フラフラとバザールへ行ったが、いくら探しまわっても炭酸水しかなく、あきらめて買う。部屋に帰ると本格的に発熱していた。チャイを沸かす気力もシャワーを浴びる気力もなかった。

明日、鳥撃ちに行こう  死んだように眠ると、次の日の夕方には食欲が戻っていた。まだダルさは残ってたが、さすがにまともな食事がしたくなっていた。バザールの一角でラグメンを食っていると、キルギス人の兄ちゃんふたりがやかましく話しかけてきて、ウォッカをおごってくれた。あした、鳥を撃ちに行こうと誘われた。「朝9時ごろむかえに行くから」と。
 外に出たところで、けたたましく写真を撮る。セックスがどうのこうのと、なおも何か誘いたそうだったが、それどころじゃなく、部屋に引き上げた。

 夜、MDを聴きながら「ブバマラ」(映画“黒猫白猫”のテーマ)の音とりに熱中した。シャワーを浴びたくなったがお湯が出ない。文句言いに行くと「カラコルではお湯なんかでないわよ」と言われた。身体を拭くだけ拭いて夕飯を食いに行こうと、パスポートを要求しても、渡してくれない。「警官に捕まったらどうしてくれる?」と言うと、「ホテルの鍵を見せたら大丈夫」 おばさんは確信を持ってそう言った。

カラコルの、深く透明な闇

カラコルの、ローカル・ロック  カラコルの街には、街灯らしきものがほとんどない。たまに通る車と、ちらほら見える建物の灯りだけがたより。そして、星は降るようだ。深く透明感のある闇。地味な食堂を見つけたが、なぜか入るのをためらわれ、部屋に戻った。警官ふたりとすれちがったが、彼らはこちらに注意を払おうともしなかった。

 結局、翌朝9時になっても、キルギス人ふたりは来なかった。変な夢を見たので、同居人に国際電話をかけに行った。彼女は元気だったが、ネコがグレているらしい……。夕べは何度か停電があったので、ろうそくを買いにツム百貨店に行った。ついでに、キルギス帽子とフェルトのスリッパをお土産用に買った。

 カセット売り場を冷やかしていると、いわゆるSexミュージックとロシアン・ポップスの山に紛れて、ボリスが教えてくれた“プラハドゥノィ・ドゥヴォール”のカセットが、いかにも自主制作っぽいたたずまいで置いてあった!ウズベキスタンの登山家たちとジープに揺られながら聴いた、ローカル・ロックンロールが。

痛恨の燻製

 ビシュケクへ戻る朝。バスターミナルへの道から山を振り返ると、雪が一気に下がっていた。登ったのはタイミング的にギリギリだったようだ。バスは、チョルポン・アタまではけっこう小刻みに乗り降りを繰り返しながら、イシク・クル湖を反時計回りにゆっくり進む。隣には人の良さそうな警官。

 うたた寝から覚めると、空はすっかり晴れて、強風が吹いていた。イシク・クル湖畔最後の街バルクッチュのトイレ休憩では、紐に連ねた魚の干物が売られていた。バスが出発すると人々がそれを食べ始めた。とたんに燻製のいい香りと、クチャクチャいう音が車内を満たした。燻製とわかってりゃあ買うんだった!

 サービスのつもりなのだろうが、助手の兄ちゃんがロシア製らしきアクションもののビデオを大音量でかけ始めた。音のでかさは尋常じゃなかった。よくみんな文句も言わず耐えてるもんだと思う。ビシュケクが近づいて2本目が終わった時は、拷問が終わった心境だった。

 やはりこの一週間で秋は一気に深まっていて、ビシュケクの人々の格好も、Tシャツからコートへ変わっていた。バスが着くと、入国の時“でかい顔”の相棒だった懐かしのドイツ語兄ちゃんがいた。「アクサイへ戻るのか」「タクシー高い! 114ミニバスで行くよ」と言うと、同業者どうしで爆笑していた。

 アクサイ・ホテルに戻ると、チビのズィマーが壁なおしの手伝いをしていて、互いにニヤリ。中華が急に食いたくなり、たらふく食べて帰り道。スカッと晴れた南の空を見て目を疑った。山が真っ白なのだ。10日やそこら前には、日差しにバテて果物をガブガブ食っていたというのに。

キルギス警官、おまえもか

 翌朝、すっきり目覚めた。久しぶりに体操らしきものをすると、体に力感が戻っていた。そろそろ、ウズベキスタンへどうやって入るか決めなくてはならなかったので、西ターミナルへ、タシュケント行きの情報を求めに行った。涼しい上に活気があっていいねぇ、うんうん、などといい気になっていると、二人の私服警官に呼び止められた。キルギスの警官にはすっかり信頼の情を持ってたので、うながされるままに建物内部に同行した。

 が、中にはさらに3〜4人が待ち構えており、カバン、パスポート、財布をいっせいに調べ出したのだ。OKと言って返してくれたパスポートをチェックすると、非常用のキャッシュが200ドル足らない。彼らは「ハラショー」と終わりにしようとするが、「あんたらを信じたいが、200ドル減ってるぞ。どういうことだ」と、英語混じりで主張。カラコルで使ったんじゃないかとか、何か食ったんだろ〜と流していたが、こちらのあまりの剣幕に、奴らはどう出たか……。

 1人がいきなりかがみ込み、「あ、こんな所に落ちてた。すまんすまん」と、足元から拾うふりをしたのだ。このやりくちは、インターネット上で体験談を読んだことがあったが、まさか自分がされるとは。それにしてもだ、まだ1枚足りないじゃないか。(と、本当に思っていた)

 「いつもパスポートと一緒に非常用で400ドル入れてるんや。せこい真似せずにスパッと返せよ」と、もう関西弁混じりでわめく。向こうは明らかに、放したがっている。とんでもない奴つかまえたなあ、っていう顔だ。ギャーギャー言いながら、「ひょっとしたら……」という思いが頭をもたげた。

 出てきて冷静に考えると、100ドルは両替したんじゃないかという気がしてきた。宿に帰ってきちんと計算してみないとわからないが、おそらくそうだ。だから、奴らはくすねた分はちゃんと返したのだ。そして、今度は逆に俺のほうがキルギス警官5人を相手に、ゆすってたことになるのか……。あーおもしろ。くすねたことには間違いないんだから、あれぐらい騒いでやってもよかっただろう。

 <教訓>ポリ多数に囲まれて「持ち物検査」をされる時は、向こうのペースで一度に広げない。ひとつひとつ、確認しながら開けさせる。極力、特に金は、向こうの手に渡さない。的確なワンポイント・ロシア語で相手を突き、後は英語や関西弁でマシンガンのようにまくしたてる。

かわいい飛行機

 ビシュケクからタシュケントへ陸路で行く場合、どうしてもカザフスタン領内を通ることになる。ビザの問題はないはずだが、なんだか面倒くさそうだなあ。と思いつつ、翌朝、カザフスタン大使館へ行ってみた。すでに並んでる人がいたが、守衛が出てきてなにやら時間変更を告げている。もう、この時点で俺は切れた。面倒だ。飛行機にしよ。

 即座に、近くの旅行代理店に飛びこんだ。82ドルなら、思ったより安い。これまでのところかなり節約できてるし、これぐらいの贅沢は自分に許そうと、即決で買った。すっかりうれしくなって手紙を書きたくなり、野外カフェへ行った。木陰のテーブルに粘って何通も手紙を書いた。コーヒーのおつり、小銭分がガムで返って来た。2回目だ。ビシュケクでの流行りなのか……。

 インターネットカフェに行くと、ちょうど店の電気が止まっていた。待っているうちに、ヒゲのK君とまた再会した。「イシク・クル湖はよかったよ、おばちゃんがこんなデカいマスを道端で売ってたよー」

 キルギスを発つ日、朝5時にタクシーをつかまえる。空港まで、ほとんど街灯のない、透き通った闇が続いた。チェックインは、朝の7時にのんびりと始まった。客の9割が、モスクワ行きだった。パスポートコントロールの後、僕ひとりが別室に呼ばれた。ひととおりのチェックの後、係官が小銭欲しげなそぶりで「プレゼント」とかぬかすので、「なんで?」とひとことだけ言って片付けていると、あっさりとあきらめてくれた。

 チェックイン後の、搭乗を待つ時間が好きだ。でっかいおばさんに率いられて、バスで機に向かう。この時はじめて、タシュケント行きの客がたった8人だとわかった。シート数30ほどの、かわいらしい飛行機に下腹から直接乗り込んだ。てっきりパキスタン人だと思っていた、NGOのアメリカ人にいちゃんが、「わーお、こんなので大丈夫かよ」としきりに言っていた。

 たった1時間半のフライトだが、雪の山が圧倒的な迫力だった。うたた寝から起きたら、黄色っぽい大地に、うねうねの川と雑然とした家々が見えていた。タシュケントは重たく曇っていた。


ウズベキスタンへ続く

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