2000年8月〜2001年1月、中国、中央アジア、トルコ、中近東、旧ユーゴスラビア、スペインをぶらつく。
ウズベキスタン 2000年9月29日〜10月6日
犬を連れたピエロ
ウズベキスタンの官憲の性質の悪さは中央アジアの中でも群を抜いている、という話を聞いていた。それで、入国時はそれなりに緊張していたが何のトラブルもなく、空港からは、温厚そうな親父のタクシーでハドラ・ホテルに直行した。タシュケントといえば、抜けるような空と乾いた空気を勝手に想像していただけに、重たい雲もそぼ降る寒雨も、まったく意外だった。
宿のすぐ近くでプロフ(羊肉ピラフ)を食ったが、ウィグル自治区で食ったのとよく似た味だった。カザフスタンでもキルギスでも、ラグメンや水ギョウザや大味のシャシリクなど、どちらかというと淡白な食事が多かったから、ここのプロフやサモサ(肉パイ)は久々にパンチの効いた食事だった。そう言えばアルマトィで「プロフ? あんなものウズベク人の食いもんだぜ……」と苦笑したカザフ人がいたなあ。ウズベク人の男たちに混ざってひとり、少し派手な格好のロシア美人がプロフをかき込んでおり、薄暗い店内でかなり目を引いた。
気分的にはもう、次の目的地トルコに向かっていた。キルギスの山に登るという目的も果たした事だし、中央アジアの地味さや官憲とのわずらわしさといったものから、イスタンブールの華やかさに飛んで行きたい気分が急速に募っていたのだ。
だから、ウズベキスタン1週間の滞在では、何の予定も計画も立てておらず、トルコ語の予習でもしながら骨休めできればいいや、ぐらいに思っていた。唯一楽しみなのは、キルギスの山で出会ったロック好き兄ちゃん、ボリスとの再会を果たすことだった。
ベッドにころがって寝るでもなくボーっとしていると、突然、景気のいいラッパの音がする。向かいの巨大ドームからだった。「もしや」と思い、フロントの兄ちゃんに聞くとやはりサーカスだった。大人も子どももウキウキしている。幕間には、巨大なニシキヘビを首にまいた女の子や、ストローが付いてて吹いたらピロピロっと角が飛び出す帽子を売る女の子が客席を回っている。ん? ピロピロ帽子を売ってるセクシーなお姉さんはやはり、昼間プロフをかっこんでいた娘ではないか。サーカスのスタッフだったのか。
サーカスを堪能した後に近くのバーでひとり夕飯を食べていると、ベレー帽をかぶった初老の男が犬を連れて入ってきて、店の人と静かに談笑していた。メイクを落としたピエロだった。思わず声をかけると、「ダー(そうだよ)」と答えて、会釈を返してくれた。なにか威厳を感じる姿だった。
ピロピロ帽のセクシーねえちゃん
タシュケントで最初に迎える朝も、雨が降り続いて肌寒かった。どこに出かける気も起こらず、何か出会いはないかとロビーで時間つぶししていると、驚いたことに、消耗した様子の日本人旅行者がやってきた。彼A君は、今朝シュムケントの国境を越えてきたらしいのだが、タクシーの運ちゃんにモノを盗られるわ、警官には引きずり倒されるわと、かなり暴力的な国境越えを余儀なくされたらしい。
じゃあ、一緒にインターネットカフェでも探しに行きますか、でもその前に札束を数えなくちゃね(インフレの激しいウズベキスタンでは、両替の度に、膨大な札束が返ってくる)と、数えはじめた時、今度は日本の女の子が現れた。フロントの兄ちゃんともども、3人の顔が一瞬にしてほころんだ。アルマトィの時もそうだったが、中央アジアでは滅多に日本人に会わないかわり、会う時にはドラマチックに鉢合わせするから不思議だ。
彼女Nさんと3人で、両替やインターネットカフェ探しを兼ねて、街に出た。Nさんはウズベキスタンだけ半月の予定で昨日着いたが、ホテルの従業員があからさまに迫るので、引っ越してきたという。A君は中国からカザフスタンを経て来たというから、どこかで遭遇しても不思議ではなかったわけだ。
英語をしゃべる若者が案内してくれたり、トラム(市電)のつかまえ方がわからず右往左往したりしながら、A君が旅行者から仕入れた情報をもとに探し回ったが、そこはビリヤード場に変わっていた。次に探し当てた所は、ブティックに変わっていた。悪徳警官がたむろするという地下鉄に恐る恐る乗って大学方面へ行き、歩いていた女子大生に尋ねると構内の施設を案内してくれて、そこで久しぶりに同居人からのメールをチェックできた。ネコが、あまり調子よくないらしい。口内炎がきついらしいのだ。
ようやく気持ちよく晴れた夕空の下、ミンチのシャシリクとプロフで早い夕食を楽しみ、店の親父と楽しく写真を撮ってすごしたあと、A君、Nさんも誘ってサーカスへ行った。ピロピロ帽子がどうしても欲しくなり、ふたりに笑われながらも、幕間に売り子のお姉さんから買った。「きのう昼ご飯の時の……」と、向こうも僕を覚えていた。低音ヴォイスが色っぽかった。
Borisと再会
次の日はまた、寒々とした空に戻っていた。僕は昼まで寝ていたが、独りでチョルスーバザールを回って来たNさんが、楽しそうに戻ってきた。明日サマルカンドへ向かうというので、一緒に行くことに。キルギスの山で会ったBorisに電話すると、すぐにわかってくれて、メトロの駅で待ち合わせをした。
赤いブルゾンを着た、ヒョロっとしておとなしそうな学生がニコニコして待っていた。山で会ったときはワイルドな格好でヒゲも生えていたから、まるで別人のようだった。カセット屋が並ぶ通称“ブロードウェイ”を散歩しながら、彼が一押しのロシアの女性シンガーZemfiraのカセットを買った。
せっかく日本人も集まってることだし、一緒にメシを食おうと、ハドラへ戻った。地下鉄の中で、キルギスで感じた疑問をぶつけてみた。いつもあんなバカでかい荷物をかついで山に行くのかと。やはり、あれは一種のトレーニングで、普段はもっとコンパクトなのだそうだ。彼は子どものころから父に連れられて本格的な登山をしており、今は時々ポーターやガイドの仕事をしているらしい。
パトカー横付け、全員連行?
ハドラに戻ると、中国の西安から自転車でやってきたという、タフなS君も加わっていた。5人で韓国レストランに向かった。地下鉄の出口で、僕ひとりだけ警官に呼びとめられたのだが、「友達が待ってる、一緒にメシを食いに行く」と言ったらすぐに放してくれた。しかし、街灯のほとんどない暗がりで右往左往していると、音もなく寄ってきたパトカーに横付けされた。
ふたりの警官が、5分ほどかけて皆のパスポートをチェック。Borisが横から懸命に助けてくれるものの、全員オヴィールへ連行されそうなヤバイ気配となる。キルギスでの「金抜き取られ事件」で勢いを得て、あくまでギャーギャーと突っ張ろうとする僕とは対照的に、S君は下手に出ることでなんとかやり過ごそうという作戦だった。
いちばん冷静だったのはA君だった。「日本大使館に電話しようかなあ」の殺し文句で、警官はとたんに軟化。今後は逆に、レストランの場所の相談に乗ってくれ、例のごとく意味不明の握手を交わして自由になった。
白タクの運ちゃんが何度も停車させて、他のドライバーに聞いたり、店まで確認に下りたりしてくれて、ようやく目指す韓国レストランにたどり着いた。ヴァラエティに乏しい地元料理が続いた日本人男3人は、とりわけ狂喜してむさぼり食った。かわいそうなのはBorisで、ロシア人の彼にはコリアン料理は激辛だったようだ。でも、箸を使って食べるのがとても楽しそうであった。
サマルカンドへの、ファンキー・バス旅
カフカス方面への大使館回りをするA君、しばらくタシュケントでゆっくりするS君と別れ、Nさんとサマルカンドへ向かった。バスターミナルへ向かうトラムは、実に風情があった。異様に広い通りや空き地ばかりが目立つ市内とは別世界のような、雑然とした旧市街を2時間かけて、ゆっくり回るのだ。色鮮やかなヴェールをまとった女性が乗ったり下りたりする。確かに、相当遅い。Borisが、トラムを使うのを嫌がって「僕らには、いい地下鉄がある」と言っていたのも納得できるが、家の軒先をかすめるように走る2時間はとても印象に残った。
ヒヴァ行きのバスに乗り込むと、乗客全員が日本人を待ちかまえていたかのように、前の席がふたつだけ空いていた。興奮状態に近い歓迎を受けて、出発。Nさんが持っていた「地球の歩き方」がひっぱりだこになる。後ろの座席から、ウォッカを飲ませにくるおじさん。サーカスで買ったピロピロ帽子でピロピロピロピロやると、車内大爆笑となり、斜め後ろのスルタン氏が、俺にもやらせろと言って放さない。その隣のじいさんだけが、真剣にあきれた顔をしていたが、スルタンは得意になってピロピロを繰り返していた。
タシュケント市を離れると、景色は一面の綿花畑となった。ときおり停車する集落には、鮮やかなスカーフに民俗衣装の女性が目立つ。斜め前の美しい母娘が、ひっきりなしにザクロやクルミを分けてくれる。しかし、昼間から飲んだウォッカがきいてきたのか、尿意をもよおしてきた。バスの運ちゃんはトイレ休憩をする気配もない。集落を抜けるたびに期待するのだが、停車するどころか、立っている乗客全員に「伏せ」をさせて駆け抜ける。おそらく定員オーヴァーの問題なんだろうが。
回りの乗客も巻き込んでトイレ休憩をアピールしてみたが、運ちゃん、どういうわけかかたくなに走りつづける。もう限界だ、もれる!と思ったころ、ちょうど下車するおばさんがいた。便乗下車して、街路樹の陰で大放出した。
夕暮れのサマルカンドに到着すると、モスクの威容がやはり目を引いた。基本的に僕は遺跡や名所めぐりに興味がないのだが、夕闇の中にドーンと構えたモスクには興奮を覚えた。
ぼったくりチャイハネの少年
翌朝、Nさんと落ち合って生活感あふれるチャイハネでサモサやプロフを食い、レギスタン広場の見物に行った。警官がひとり近づいてきて、「2ドル出したら、ミナレット(塔)の頂上に案内してあげるよ」と言う。35メートルの高さから見る遺跡は、それなりの価値はあった。それより、狭い螺旋階段を登って行くスリルが楽しかった。
Nさんとはぐれ、バザールでナッツや干しブドウを買ったり、木の実をくりぬいた香辛料入れを見つけて喜んだりした後、アフラシャブの丘へ行った。小高い起伏を登ったり下りたりして、意味もなく歩き回りたくなる時があるのだ。街の方向を見ていると、地図を見ながら歩いて帰れるような気がした。それで自信満々で宿へ歩き始めたが、新市街への道は思いのほか遠かった。
次の夕方には、タシュケントからやってきたA君と再会。3人でチャイハネに入ったが、頼んでもいない料理が運ばれてきた。ぼったくりチャイハネだったのだ。しかし、かいがいしくはたらく6歳ぐらいの少年が、「ホーロドゥナ!」と肩をさする格好をしながら、屋内に招き入れてくれたりして、妙に居心地がよかった。実際、かなり冷えてきて動く気もしなかったので、しばらくそこでくつろいでいた。
得意げな顔で時々僕らを振り返りながら、張りきってチャイを運んでいた少年だが、突然階段につまづいて転んだ。派手にポットごとひっくり返して。指も少々切ったらしく、A君が素早く応急処置をしていた。少年はしばらくの間しょんぼりとしていたが、すぐに張りのある動きで働き始めていた。
サマルカンドのあたりは、タジキスタンとの帰属問題がくすぶっている地でもあるらしい。なじみになりかけた雑貨屋の若者たちも、俺はタジク人だ、と言っていた。その店で妙に甘ったるい、ウズベキスタン製コニャックを買い、3人で楽しく飲んだ。テレビをつけると、ユーゴの民主化運動でミロシェビッチが退陣しそうだというニュースに引き続いて、抵抗が激化しつつあるパレスチナの映像が流れた。どちらも、これから向かうところである。
静かな父子とタシュケントの夜
翌日、ヒヴァへと旅を続けるNさんらと別れ、乗合タクシーでタシュケントに戻った。トルコへの航空券を買いに行くと、安いのは夜間便しかなかった。僕は、飛行機では必ず窓側に座って景色を見たがる男である。カスピ海やカフカス山脈、アナトリアの大地を越えるのに、夜間便だなんてあまりにもったいない。が、旅はまだ三分の一が終わったばかり。背に腹は代えられなかった。
チョルスーバザールでお土産のスカーフを買い、宿を出た。うまいプロフの食堂親父と、目と目であいさつを交わし、Borisの待つ地下鉄へ。チランザルで下りて、小さい川を渡ると彼の住む団地があった。外見の味気なさとは裏腹に、家の中は木がふんだんに使われていて実に落ち着く空間だった。よく遊ぶネコがいる。
彼のパソコンのトラブルを見に、友人がやってきた。「私の名は……」と、あらたまってあいさつしようとすると、「知ってるよ!」。やはりキルギスの山で一緒だったしぶい男、アレクセイなのであった。Borisの部屋にはニルヴァーナのポスターがでかでかと貼ってあり、ドアーズやストーンズなど、ロックの元祖のようなカセットであふれていた。
暖めてくれたシチューを食べていると、父親のアレクサンドルが帰ってきた。キルギスやタジキスタンの山の写真を見せてもらう。氷河のクレバス(割れ目)の脇を登っている写真など。
ふたりは僕に遠慮してか、ひんぱんにチャンネルを変えた。ウズベキスタンの国営放送は、Borisによると「おもしろくない」。ニュースでは、ユーゴのミロシェビッチが負けて去った、と伝えていた。「レヴォリューションだね」
ちょうど、日本で見そこねた「橋の上の娘」というフランス映画をやっていて、最後は三人で見入っていた。ナイフ投げ芸人の話だ。ラストシーンの舞台がイスタンブールになり、ガラタ橋が出てきた。おーっ、明日はあそこに居るんだと、独り不思議な高揚感。
映画が終わるとちょうど12時だった。言葉少なに表に出ると、アレクサンドルがジープをまわして来てくれた。街灯でオレンジ色に薄暗く染まったタシュケントは、夜中でも意外に交通量があった。互いにカセットを送り合うことをBorisと約束し、空港待合室の入り口で別れた。
搭乗までは、まだたっぷり時間があった。スム貨の小銭が中途半端に余ったので、売店でチョコレートとロシア製コンドームを買ったら変な顔をされた。
イスタンブールへ続く