2000年8月〜2001年1月、中国、中央アジア、トルコ、中近東、旧ユーゴスラビア、スペインをぶらつく。
イスタンブール 2000年10月7日〜10月13日
まずは、さばサンド
トルコの首都イスタンブール。北京を8月の終わりに発って以来の、巨大都市である。アクサライでバスを降りると、トルコ人と台湾女性のカップルが日本語で話しかけて来た。彼らと一緒にトラムに乗る。久しぶりの中国語が懐かしく思えた。トルコ人がジェトン(トラムに乗る時のコイン)を買ってくれて、なぜか金を受け取ろうとしなかった。
8年ぶりに降り立ったスィルケジ周辺は少し小奇麗になった気がするが、それは、くすんだ中央アジアから一気に飛んできたせいかもしれない。目星をつけていたホテル・サネムはすぐに見つかったが、昼過ぎまで空き部屋がないというので、値引きしてもらってしばらく待つことにした。中央アジアでは手放せなかった、両替の証明書や申告書を処分すると、パスポート入れもすっかり軽くなった。
カザフで出会ったヒゲのK君が言っていたギター屋街でもないかと探したがわからず、かわりに、7年前にサズ(トルコ、中央アジアの伝統的な弦楽器)を買った店で、スペアの弦を入手した。旅行代理店が並ぶスルタンアフメットあたりでは、あちこちから日本語で声がかかる。じゅうたん屋の兄さんたちには、今買うつもりはないと、はっきりこちらの意向を伝えた方がかえって楽だった。天気もポカポカと気持ちよく、ワクワクしながら歩き回った。
8年前に来た時、“さばサンド”に心から感動した。文字通り、サバの塩焼きをレモンや玉ねぎと一緒にバゲットにはさんだ物だ。まずこれを食おうと、スィルケジの桟橋に行った。おいしそうな煙をたてながら揺れている小船でこれを買い、ムール貝にピラフを詰めた“ミディエ”をいくつも平らげながらガラタ橋の賑わいを眺めていると、喜びが押さえられなかった。
宿に帰ると、結局今夜も空き部屋はないというので、ロビーのソファで寝ることになった。3ドル(2000,000トルコ・リラ)に負けてくれたのだと思ったら、3000,000リラ(4.5ドル)だと言って、おっさんは譲らない。ポンと肩をたたいて「明日は部屋もシャワーもあるからな!」
飾り窓
少し昼寝をして、再び街をうろついた。中央アジアとは比較にならぬほど物があふれている。文房具屋の品ぞろえなど、日本の都市と変わらない充実ぶり。中国や中央アジアではボールペンが、おそろしく太い無骨なやつか、すぐ壊れるチャチなものしか手に入らなかった。手記をつけたりアドレス交換に、ペンは必需品だ。ここで韓国製のなめらかなペンを買いだめした。
坂を登ったり下りたりするうち、店じまい直前の活気にあふれる魚屋街を抜けてガラタ橋に出た。ガラタ塔のとんがり帽子に誘われるように対岸に渡ると、ウズベキスタンで出会ったNが行ってみたという、飾り窓を見たくなった。「暇があったら世界の“赤線地帯”の研究をしてみたい」という面白い女の子だった。
タクシム広場へ向かう路面電車通りの左右の路地をくまなく歩いたが、観光客相手のバーやロカンタ(食堂)ばかりで、怪しげな空気はない。前に読んだ藤原新也の写真集のおぼろげな記憶から、ベイオウルという地名に引っかかりを覚えたが、路地で子どもらがサッカーしていて、ごく普通の下町だった。なま暖かい潮風の中を歩きつづけ、体もべたついてきた。あきらめて、ケメラルトゥ通りを引き返してしばらくすると、右手に登っていく石畳の薄暗い坂に、男の姿しかないのに気づいた。
確信を覚えて登り進むと、大きなハマム(共同浴場)があり、小さなゲートの向こうには青やピンクに照らされた部屋が両側に広がっていた。各部屋には、薄物をまとった女性が2〜3人ずつ、ややくたびれた表情で立っていた。行き交う男たちのひとりが「東京、写真、どうのこうの」と話しかけて来たが「わからない」と答え、なおも前に進みかけた。
すると入り口のポリボックスから私服がやってきて「英語わかるか? オンリー、テュルク(トルコ人)だ。ツーリストはノー。OK?」。問答無用で追い返された。Nさんみたいな若い日本の女の子が、いったいどうやってこんなところ歩けたんだ??
夜のガラタ橋を渡って戻ると、さばサンドの屋台舟も景気よく煙をたてて焼いていた。駅近くのロカンタで煮込み料理を食って宿に戻ると、宿泊客は地元民やカフカス諸国からの出稼ぎ労働者らしき男たちばかりで、バックパッカーの姿はなかった。
アゼルバイジャンの船乗り
トルコでは、イスタンブールで数日ゆっくりした後、一気に東部クルディスタンへ行く予定だ。政治的にも緊迫して、おそらく英語もほとんど通じないだろう東部行きに備えて、翌日からフロントの親父を相手にトルコ語会話の練習を始めた。「今日は日曜? バザールは何時から?」などとやっていると、昨日のチェックイン時に英語で助けてくれたアキーフが「My friend!」と言いながら下りてきた。
彼はアゼルバイジャンのバクーからやってきた船乗りで、黒海では仕事がないからイスタンブールまで来てみたが、結局明日帰るんだと言う。中国からの旅の話をすると、Great Journey! と驚いていた。彼自身はいったん帰国したあと、今度はドイツに渡るつもりだと言う。
旧ソ連・中央アジアでの官憲とのトラブルの話になると、「俺の国のポリスと税関もひどいもんだよ、旅行者ばかりじゃなくて自国民にもひどいことするよ」
イスタンブールに来て3日も経つと、そこら中でかかっているネットリとしたトルコ歌謡にも飽きてきた。新市街のレコード屋で何かいいのはないか店員に尋ねると、シェブネム・フェラという、女性シンガーのカセットをすすめてくれた。
その帰りにタクシム広場の端っこで、アコーディオン弾きの少年をみた。そういえばカザフスタンのアルマトィでも路上演奏をよく見たが、ほとんどが老人だった。身をよじらせるようにして弾く(おそらくはジプシーの)少年に、しばし見とれた。
飽食と学習の日々
朝は向かいの雑貨屋でパンやアイラン(塩辛い飲用ヨーグルト)を買いこんで食べ、部屋でトルコ語の勉強をして過ごした。ここに来て買った、英語・トルコ語豆辞典も大いに役に立った。
欧米人客でにぎわうロカンタの食事も美味かったが、裏通りにいい店を見つけた。10人も入ったら一杯になるような狭い店で、アダナケバブを頼んだら、皿の上にはスパイスの効いたケバブ(串焼き)にナン、ピラフ、サラダが、所狭しとあふれていた。付け合せの焼きししとうも美味しかった。出るときに「美味かった!チョックギュゼルディ!」と言うと、無愛想だった店員がにこっとしてくれた。
それにしても、トルコでは両替や買い物の度に、ゼロの多さに面食らう。インフレで、3ケタか4ケタほどもゼロが余分なのだ。ウズベキスタンでは高額紙幣がないため、ちょっとした両替で分厚い札束が返ってきたが、トルコリラの場合は札のケタ数を確認するのが、慣れるまではたいへんだった。このことが間もなく、ちょっとした破局を呼ぶのだが…… この時はイスタンブールの華やかさに、完全に浮かれていた。
この街にいるうちにやっておきたいことのひとつが、メガネの修理だった。ウィグル自治区のイーニンで、女の子たちが間違って踏んでしまったからだ。スィルケジのメガネ屋に持って行くと、「壊れてますねー」「わかってるけど、温めて何とかしてよ」。おかげで、歩いていてズリ落ちる不安もなくなった。兄さんは金を受け取ろうとしなかった。
英字新聞
トルコを出国してパレスティナへ向かうために、隣国シリアのビザは日本で取っていたが、ヨルダンビザはイスタンブールで取得しなくてはならなかった。手続きのために日本総領事館へ行くと、チーフらしきイブラヒム氏が出てきてていねいな英語で、日本人狙いの睡眠薬強盗への注意をしてくれた。半年で17人が被害に会い、なかには大量の睡眠薬で死に至るケースもあったという。食べ物に注射器で混入するなど、手口も巧妙化しているという。「でも、ほとんどはアラブ系とか、外国人の仕業なんですよ」
中国、中央アジアでは見かけることもなかった英字新聞を買ってみた。やはり、ユーゴとパレスティナが大きく出ている。タクシム広場に面したカフェに陣取って流し読みしてみたが、パレスティナはほとんど戦争状態じゃないか!
できれば、8年前に泊めてもらったナブルスのパレスティナ人ムハンマドに再会したいが、シリア・ヨルダンまで行ってみて、ダメなら引き返すしかないのだろうな。
辞書なしで英字新聞を読むのにも限界があり、煮込み料理を頼んで食った。かなり塩辛いと思ったが見まわすと、おっさんも若い女性も、食べる前にさらに塩を振りかけている。それも、サッと一振りなんてものじゃない。力いっぱい打ちつけるように、20回ぐらい振りかけている。
売春少女と、じゅうたん屋の情熱
不用になった荷物を日本に送ろうと郵便局を探したが、8年前の記憶はあいまいだった。声を掛けてきたエロCD売りの少年に聞いて、思ってたよりバザール寄りだとわかった。キルギスの山で使ったキャンプ道具や中央アジア土産を送ると、5キロ近くも荷が軽くなった。
インターネットカフェでメールをチェックすると、バンドメンバーや同居人から、パレスティナ情勢ちゃんと分かってる?という心配のメールが届いていた。さらに、北京で出会ったスペイン人のフアンや、新彊へ向かう汽車旅で一緒だったフランス人のNai、キルギスで一緒に山に登ったドイツのクリスティンからも届いていた。微妙にキー配列の違うトルコ語キーボードに苦労しつつ返事を送り、店を出るときに「イィアクシャムラル!」とあいさつすると、皆が応えてくれた。
フロントの親父に、「ベリーダンスはどこで見れる?」と尋ねると、「タクシムだ。でも高いよ」と言うので「安いところは」と聞き返すと、変な顔をして表のディスコを指し「そこだ。でもproblem。タクシムはpahal(高い)だけど、ノープロブレム」
夜になり、向かいのディスコが気になって窓から観察してみた。ユーロビートっぽい大音響がもれ聞こえるが、客の出入りはほとんどなく、用心棒らしき屈強な兄ちゃんが時々交代しながら立っている。客らしき男ふたり連れが、ようやく出てきた。10時半になると、兄ちゃんは前の道をホウキで掃除し始め、車止めを置いた。う〜ん、根負けして偵察断念。
以前、友人がすすめてくれた「イスタンブルース」という本に、エディルネのジプシー地区へ行けばベリーダンスが見れる、と書いてあった。久々に晴れた夕方、バスでエディルネの城壁へ向かった。バスターミナルなどでは、断片的なトルコ語がけっこう通じるようになっていた。
さて、城壁の残骸に沿って歩き出したものの、どこに行けばよいやらさっぱりわからない。ごく普通の住宅地が広がっているだけだ。やがて、小児麻痺らしき若者がやってきて、行き止まりだというジェスチャーをする。彼と一緒に、引き返し始めると、いろんな人が彼に声を掛けて来た。
大通りの反対側の坂を下ると、景色は一変した。エミール・クストリッツァ映画「ジプシーの時」を思い出すようなボロボロの家がならぶ。下るにつれ、性的なにおいが濃厚になった。化粧の濃い少女が、タクシーを止めて交渉している。ほんとうに、「ジプシーの時」に出てくるような太ったおばさんが、まだ中学生にもなっていないような、少年のようにほっそりした娘と一緒に手招きして、「この子が、あんたのために踊るよ」みたいなことを言う。突然、誰かが「ポリス!」と叫んだ。あわてて、知らぬ顔をして歩き出すとパトカーがゆっくりと過ぎて行った。
地下鉄で、スルタンアフメットに戻ると、ヒマをもてあましたじゅうたん屋の店員がお茶に誘ってくれた。こちらが買うつもりのないことを最初から分かったような、のんびりした誘いだった。「別に少々売れなくても、俺には楽しいんだ、この仕事。通りに座っていろんな人としゃべるのがな」
彼の若い相棒は、フランス人の女の子たちを呼び込んで来ていた。「あいつは留学帰りだよ。完璧なフランス語しゃべる」 これまではどちらかと言うと、つれなく拒絶する対象としてしか見ていなかったが、じゅうたん屋の兄ちゃんたちの覇気とエネルギーに少し圧倒された。
気のいいじゅうたん屋に別れを告げて歩き出すと、別の店から手招きされた。断片的なトルコ語にその店員は大喜びし、さらにロックの話で盛り上がった。「ところで、お前、イスタンブールでは彼女できたか?」そう言えばさっきの店員も、同じことを聞いたな。
来たばっかりの旅行者にそんなヒマないだろ、普通? と返すと、女を買う話だったのだ。「アクサライに言ったらロシア女がいっぱいいるぞ。お前、しっかり肉食ってるか? トルコの男なら肉を食いまくってだな……」と、どう見ても少年の面影を残した店員が息巻くのが可笑しかった。
ナイトクラブの大たわけ
結局、宿の親父に言われた通り、タクシムまでベリーダンスを見に行くことにした。ドアを開け放したあちこちのバーから、トルコ歌謡らしき音楽が聞こえる。路地でミディエ(ピラフを詰めたムール貝)を売っている少年に「どこに行ったら、ベリーダンスが見れる?」と聞くと、相棒の少年がついて来いとばかりにさっさと歩き出した。そこには、くだけたビジネスマン風の、ハッサンという男がいた。
話していて愉快な男だったので、彼が案内するナイトクラブに入った。ビールが5倍近く高いな、まあ、それぐらい大丈夫やろ……。ステージでは半裸の女たちが、交代で踊ってるかと思えば、すっとぼけた手品師みたいな男も出てきた。ハッサンと僕のテーブルに、店の女たちがついた。彼女らが、「どこでトルコ語勉強したのよ」などと言いながらシャンパンを景気よく頼むので、一緒に浮かれて飲んでいた。
だいぶ酔いが回って来たときに、チラッと警戒心が頭をもたげて、メニューを確認して見たが、ゼロが7つも8つもあって、面倒くさくなった。「いいからいいから!」と女たちにも取り上げられてしまった。まあ、5倍ぐらい高いだけだろ、ハッサンだって金持ってそうだしな……。この時点で、自己防衛機能を、完全になくしていた。僕の隣にはデニズ(海)という源氏名のトルコ娘、ハッサンにはウクライナ美人がついて、僕らは調子にのって飲み、騒ぎつづけた。
さすがに見かねたのか、それとももう充分と踏んだのか、店のマネージャーが僕らを呼びに来た。「日本のミスター、カードはお持ちですか?」男の礼儀正しさが、かえって有無を言わせぬ威圧感で迫ってきた。女たちが注文しつづけたシャンパンの値段だけが、ケタ違いだったのだ! 頼みのハッサンもべろんべろんに酔っており、しかも奴が取り出したカードは、切れていた……。「さあ、どうします? 日本のミスター」
キャッシュカードを取りに、彼らの車で宿へ向かう羽目となった。ハッサンが、金銭感覚のゆるいただの金持ちのボンボンだったのか、それとも最初から店とグルだったのか、そんな事ももうどうでもよかった。夜のガラタ橋を渡りながら、まだ、どこか他人事のようにこの状況を楽しんでいた。
立て直し、そして東部へ
さすがに一夜明けると、壊滅的な出費と自己嫌悪に打ちのめされた。クルディスタン、中東、旧ユーゴまで、あと2ヵ月以上持たせるには、残りの現金とトラベラーズチェックでは、かなり心細くなっていた。これからしばらくはそれこそ、キャッシュカードはおろか、トラベラーズチェックも通用しない地域に入るのだ。非常用の貯金を日本から引き出さない限り、旅の続行は困難だった。
同居人に状況を説明するのはかなり情けなかったが、ともかくいくらかの現金を引出した。そしてその日のうちに東部へ向かうべく、動き回った。
スィルケジ桟橋から船でハレム・ガラージュのバスターミナルに渡ると、2時間待ちで、イランとアルメニア国境の町・ドゥーベヤズット行きのバスがあった。
この続きはしばらくお待ちください。(2003年1月8日)
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